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ホーム コミュニティ 「捕虜記 流されるままに」 一章 流転の果て

捕虜記 流されるままに

第一章 「流転の果て」
第二章  「異国への旅路」
第三章 「生と死の狭間」
第四章 「祖国を夢見て」
第五章 「あとがき」

D棟にお住まいの阿部正和さんによる、ご自身の入隊〜終戦〜シベリア抑留〜帰国という貴重な体験の記録です。

※第二〜五章は住民専用ページで公開していましたが、一般ページへ移動しました。(2007.05.26)

「一九四八年十一月、ソ連より郷里群馬に帰還した時に、私の人生に於いても貴重な体験で有ると共に、生きた証拠として書き残して置こうと機会の来るのを待って居ました。
併し生きる術の下手な私ですので資料を抱えた儘、平成十年七十六才の年に此の捕虜記をエッセイ風に書き始めて見ましたが、思う様に筆も運ばず一旦諦めて寝かして居りましたが、八十才を期にボケ防止に再度挑戦して漸く完成させる事が出来た様な次第です。

素人のこと故表現方法は幼稚ですが、二度と戦争だけは、して欲しく無いと言う願いだけで書き上げたものです。

そのことを御含みの上読んで頂ければ幸いと思っております。」

平成十四年十月吉日 阿部正和

著者近影:
著者近影
原稿を手にご自宅の前にて

一章 流転の果て

1−1: 入隊
1−2: 新設部隊
1−3: 奉天へ
1−4: 終戦の日
1−5: 解散見送り
1−6: ソ連軍進駐
1−7: 当てもなく
1−8: 心の隙間風
1−9: 略奪事件
1−10: 追放
1−11: 仮収容所
1−12: ゆき詰まり
1−13: われて

 

1−1: 入隊

昭和二十年七月三十日、私が務めて居た国際運輸に出勤した所、所長より召集令状を渡された。見れば日限に余裕の無い八月一日午前十時までに、ここ熊岳城から三百キロも離れている撫順に設営された部隊に行かねば成らないので、あらましの事務引き継ぎを済ませて入隊の準備に取りかかった。寮に帰る前にまず切符をと思って駅に行き、顔なじみの今井さんに切符を依頼したのですが、急行券が入手出来ず鈍行で行く事と成ってしまった。翌日は早めの列車で許家屯を出発したのですが、戦時中の事で鈍行列車はスムーズに走らず、夕方五時過ぎに漸く奉天に着く事が出来た。
撫順行きの列車の出発を待って居ると、出発間際に成って激しい雨が降り出した、その土砂降りの中を列車は走り出した。
車内は召集兵らしき人が殆どで、皆これから先の不安を隠しきれず、物思いに更けて居る姿ばかりが目についた。
隣の席に座った人が私に声を掛けた、
「召集かね」
「ハイ」
親しみを感じる人柄に、つい、つられて世間話などして居ると、話の様子からどうも同じ部隊に召集されて来たらしく、三浦という伍長であった。この人は新しい部隊の結成に兵隊を指導する為に召集されて来たと言って居た。
心配性の私は、不慣れの所の部隊を探すと言う事から解放され幾分落ち着く事が出来たので部隊生活の要領などを聞いて撫順に着くまで話し続けた。
駅に着いた頃には雨も小降りに成って、路地を照らす疎らの外灯は暗く、くねくねと続く町並みを伍長の後を付いて行くと坂上の小学校に着いた。ここが部隊の所在地であったので、受付に届けをすませると、講堂に案内されて此処で一夜を過ごす事と成った。
翌朝早めに目を覚まして当たりを見渡すと、天井の一角が雨漏れの為滲んで、まるで猫がネズミを狙って飛びかかるような構図に見え何か自分の前途に不吉を暗示して居る様に思えた。
午前十時より入所式がおこなわれ、部隊の編成発表があって、私は第三中隊第一小隊の第三分隊に配属された、奇しくも奉天より一緒だった三浦伍長が私の所属する分隊長であったのには、余りの偶然に驚かされた。

1−2: 新設部隊

私の入隊した部隊は、敵の戦車の進撃を阻む為に兵士が爆弾を抱えて戦車めがけて飛びんで責務を果たす挺身隊でした。
在満各地から召集された軍隊経験の少ない者が主体の新設部隊なので、入隊早々は朝から晩まで規則と礼儀の指導ばかりでした。
八月五日この出来たての部隊にも、撫順の女子学生が慰問に来て演芸や歌を披露して暮れたので、男ばかりの味気無い場を和やかにして呉れたまでは良かったが、慰問の学生が帰った後華やいだ気分に酔い痺れた現役の古参兵は、その捌け口を私達に向け講堂に集まる様に言って来た。
私達を講堂に集めて、越智と言う教育係が壇上に立って、
「未だ日が浅いので民間人としての気分が抜けきらず、この非常時の認識に欠けて居る、軍隊精神の何たるかを教えてやれ・・・」と叫んだ。
それが引き金と成って、古参兵が一斉に新参召集兵いびりが始まり、勝手な理屈を並べて、殴る蹴るの暴力で好き放題に暴れまくった。
この騒ぎの対象と成った私達は、無抵抗のまま抗議一つ出来ない軍隊の醜い所をいやと言う程味合わされた。
翌日より校庭にて軍事教練が始められたのですが、兵器らしき物は何一つ無く、只大八車が数台有るだけであった、それを引く者と、それを戦車に見立てて飛び込む役とに別れての訓練であった。古参兵達は我々に気合いを入れるだけで、実演は私達だけであった。
この訓練を一日中した後は、車輪に引かれて青あざをつくる位はまだ良い方で、歩けなく成る程の怪我をした者も居た。
訓練が終わって、痛みを堪えつつ同僚達と愚痴って居る所を見て、古参兵は、
「どぅせ死んで行くお前等だ、その位の怪我がなんだ・・」
と嘲るように言っていた。
この過酷の訓練も数日間で、ソ連参戦と言う事態で、八月九日午後に奉天防衛の為に、撫順を後に出発した。

1−3: 奉天へ

朝からの出発準備が総て終わり、午後二時も過ぎた頃撫順の宿舎を後にして奉天へと向かった。四時間余りの行軍の後第一回目の休憩があった。
そこは日本人の入植している開拓村で、ぽつんぽつんと入植者の家が望める所で、その中の一軒に水を貰いに出かけた。
その家の井戸の近く迄来た所で水を貰いたい旨、家に向かって呼びかけると、家の中から主が出て来て、明日内地に引き揚げる準備中なので、良かったら庭の畑の物を好きなだけ持って行って呉れと言われた。
私達は余りの言葉に喜び勇んで、持っていったバケツに胡瓜やトマトを入るだけ入れて、意気揚々と引き返して来ると、皆川一等兵に一喝された、
「水を汲んでこいと、言ったのだ・もう一度行って汲んでこい」と怒鳴られた。
やっとの事で水を汲んで帰って来ると、先ほど貰ってきた胡瓜やトマトなどは跡形も無く私達の口には一つも入らず仕舞いでした。
暫くしてその場を出発したが、間もなく陽は落ちて暗い夜道をただ黙々と歩き続けた、撫順より奉天までは五十キロ余りなのですが、新設されたばかりで過半数の者は強行軍の経験もなく、緩やかな足取りであったので、奉天城入り口に着いたのは朝方五時過ぎでした。到着はしたものの行く先が決まらないのか到着地点の植え込みを背に、永いあいだそこで待たされ部隊が動き出したのは午後に成ってからあった。
しかし一時間程歩くと公園の様な広場に着いたが宿舎らしい建物は見あたらず、結局その夜は、その場所で野宿する事と成った。
奉天に着いたまでは良かったが、部隊の行く先が有るのか、無いのかはっきりしないまま心細く待って居ると、午後に成って漸く出発の声が掛かり案内された所は、見覚えの有る鉄路学院であった。

1−4: 終戦の日

市街地を少し逸れた所の鉄路学院が私達の仮の営舎と成って、そこで防衛の任に当たる第一歩が始まった。
一分隊二十余名が一斑として一教室におさまって寝起きを共にする事となったが、到着後二・三日は我々兵卒の仕事は、片づけと洗濯位で、奉天市街の防衛と言う任務を帯びて来た割には緊張感もなく、軍事訓練もやらない、のんびりした日々であった。
十四日は、からりと晴れた絶好の日和で、古参兵が出した洗い物を含めての洗濯日と成って、干場は満艦飾の如くの賑合いであったので、ソ連の参戦も誤報だったのかと思う程の静かさであった。
私が十五日の朝早く洗面所に所用の為出かけて行くと、同僚の酒井が、どこから聞いて来たのか、終戦に成るらしいと言って居たので、そこに居た四・五人で解散後の事を話合って居る所へ、運悪く私達が一番嫌悪している皆川一等兵が聞きつけて、
「そんな出鱈目の話、誰が言った・・」と言って、そこに居合わせて居た全員が、彼からピンタを張られた、班に戻れば亦厄介な騒ぎが起こるであろうと覚悟して、戻って見れば意外にも騒ぎ立てられず、不思議な事もあるものだと思って居た。
朝食後に三浦班長から、召集された新兵を除いて、他の者は至急将校室に集まる様にと言って居た。それは事後処置と「終戦の詔書」を聞く為であったと後で聞かされた。
残された私達は、五月蠅い古年兵達の留守を好いことにして、真偽の程は解らないのであるが、もし終戦と言う事に成れば、如何なる方法で家に帰るか等、尽きない話題に花を咲かせて居た。
正午過ぎであつた、ある者は目を真っ赤に腫らして泣きながら戻つて来る者、亦気持ちの高ぶりが収まらず喚き散らして居る者等、各人の表現は違っては居るが、張りつめた心の総てを喪失した姿であった。
是で戦争は終わったのだと思う心の安堵と共に、此処は中国領で日本では無い、この地に居る私達の前途を襲ってくる事々の不安が、次々と押し迫って来るのを覚えた。

1−5: 解散見送り

日本が戦争に負けたと言う事が、どう言う結果をもたらすかと言う判断も考えず、終戦ともなれば、直ぐにでも部隊が解散と成り、我々は自由の身に成って各々の考えのもとに、行動しなければ成らないのかと思案していた。
しかし隊長は命令系統が崩壊してしまった今、どうすれば自分の部隊の解散がスムーズに運ぶか検討して居たのであろう、終戦翌日の朝であった、校庭が余り騒がしいので近づいて聞いて見れば、一番奥の校舎に陣取って居た第六中隊の者達であった、この隊は奉天近郊から召集された者が多く隊員の総意に依って自主解散をしたのだと言って、それぞれ私物に着替えて正門より出て行く所であった。
私は立ち去って行く六中隊の人々を見送って、我が隊も追々解散するものと思って居たので気にも止めて居なかったが、其の日は他の隊でも一部の者に対して自主解散を認めて居る様な噂が飛んで居たので少々気には成って居た。
そのうちに解散するだろうと、たかを括って待ち続けたが、十七日に成っても其の気配が無いので焦り出し、この鉄路学院の近くに住んで居る兄に相談しょうと思って社宅を訪ねて見れば、既にもぬけの殻と成って居た。
がっかりして部隊に戻って来ると、昨日解散して行った六中隊の人達十名余りが、鉄道も動かず、街は不穏の状態なので帰るに帰れず、この部隊に戻って来たと話して居た。
考えて見れば傀儡政府の満州に居て、侵略して来た日本が敗戦したと成れば、当然日本人に友好的な者など居るはずが無く、治安の悪化は十分予想出来る状態であって、解散は無理だったのかと思えた。
私達の中隊長近藤中尉は実直な人柄だから情勢判断を慎重にしたのも頷ける気がして、時期のくるのを待ったのかも知れないと思った。

1−6: ソ連軍進駐

終戦から三日目の朝であった、将校室の前で近藤中尉が他の中隊の将校と何か言い争いをして居るのが、渡り廊下越しに見えた。
後で聞いて解った事ですが、昨夜部隊の食料倉庫が荒らされて、調べた結果一部の将校が終戦のどさくさに、家族の元へ運んだと言う事が判り、私達の中隊長はその所業に憤慨して今夜から自分の隊の兵士を警備に当たらせる事とした、そして私もその夜の当番の一員に撰ばれ任務を果たして、翌朝交代要員に無事引き継ぎをした。
さて宿舎の鉄路学院に戻ろうとして、倉庫を出た途端、張り裂けんばかりの金属音と、風圧による地響きに驚いて、腰砕けと成って、へなへなとその場に崩れてしまった、恐る恐る見上げれば、ソ連の大型爆撃機が三機、超低空で飛び去って行くのに出っくわして、足が竦む程驚かされ、気を取り戻して表通りに出た。
表通りは騒然として居り、角を曲がった所で今度は、猛然と土煙を立てて数十台の装甲車が進撃して来るのにぶつかった、建物の陰に身を潜めて眺めて居ると、続々その後からソ連兵が大勢乗り込んだトラックが、数知れず延々と続いて居るのを見て、一瞬度肝を抜かれてしまい、このまま宿舎に戻る元気を無くして、一旦倉庫に引き返して暫く様子を見る事にした。
数時間を経て、頃合いを見て鉄路学院の正門に到着、入ろうとして校庭を眺めればソ連兵が大勢配置に就いて、没収した兵器を警備している所でした。私達はソ連兵を見て正門から入るのをためらって居ると、宿舎の方から我々の同僚を使役に刈り集めて来たソ連の将校が、門外で躊躇している私達を素早く見つけて、引き連れて来た使役と一緒にトラックの積み込み作業を強引にさせられてしまった。
二時間程で作業が終わり、宿舎に戻ろうとすると、今までおとなしく警備して居たソ連兵が、急に態度を変えて、私達に銃口を向けて強盗に変身した、私もこの時持って居た、時計と財布を巻き上げられてしまった

1−7: 当てもなく

八月の半ばも過ぎた満州の夕方は気忙しい様に暮れて行く、そんな最中に部隊の兵器類を全部ソ連軍に没収された後に、即刻奉天市内より退去を命じられたらしく急に鉄路学院を明け渡して出発した。
市街地を早く離れるのが急務で有ったのか、目的地が有るかの様に速い足取りで行進して居たが、人家が疎らに成った地点に達した頃より先導隊が止まってしまいなかなか進まなく成ってしまった。
時々動き出しても暗闇の中をだらだらと歩いて居るので一向に先には進まず、もたもたして居たそんな折りに、上空より監視しているのか?偵察機がサーチライトを照らして、我々の行方を確認するかの如く幾度も照らし出して居た。
どの位歩いたので有ろうか、辺り一面黍畑と思われる所でやっと休憩することが出来た、空には一面無数の星が煌めき、昨日まで想像だにして居なかった私達のこの境遇などとは無関係に、相変わらず夜空は美しく輝いて居た、草むらに寝ころび乍ら、透き通る夜空を 眺めて居ると、知らず知らず涙がこぼれて来て仕方無かった。
うつらうつらして居る内に何時寝たのか知らずに居たが、辺りから聞こえて来る声に目を覚ますと、農道に添った掘っ立て小屋の前で、第二中隊長の古賀中尉と私達の近藤中尉が困惑した顔をして、何かひそひそ話をして居た。
どうも部隊の落ち着く場所が見当たらず、彼方此方手分けして、短期間でも駐在出来る場所探しに懸命の様で有った、しかし敗戦した日本兵など短期間で有っても引き受けて呉れる所など有る筈がなく、農道を外れた小高い丘の上で、待ち続けたが良い返事は届かなかった。

当てもなく
絵:筆者

暫くして、近くの村の代表が来て、此処に居座っては困ると抗議して来たので、中国語が堪能な古賀中尉が、行き場の無い実状と現在の苦境を説明した上で、お願いした所、代表が中を取り持って村長に話して呉れたので、短期間と言う条件で纏まったそうです。

1−8: 心の隙間風

交渉の末居場所が何とか決まったので、隊員全員の顔からはほっとした安堵の色が見られ、漸くそこを立ち退いて道義屯と言う村にお世話に成る事と成った。
村に通じる道路を五百メートル程歩いた所で、引き揚げ途中に襲われたと見られる邦人の持ち物で有る、雑貨や写真等が道路一杯に散らばって居り、その上荷車は畦道を塞ぐ様にひっくり返って投げ出されて居た。
この光景を見て、自分達の境遇も忘れて、逃げ惑った邦人家族の悲惨な姿を思い浮かべ乍ら敗戦の惨めさが頭に焼き付き、泣きたく成る思いで深く感傷に耽ってしまった。
如何ほど歩いたのか、村の近くを流れている小川の手前で私達は引き留められ、そこで
四・五名の将校だけが村の代表と共に、村の中に入って行ったまま三時間以上も待たされて夕暮れ近くに成って漸く村の中へ入る事が出来た。
後で聞いた話でしたが、村の一部の長老が反対した為、村長の説得も儘成らずなかなか話しは進まなかったが、交渉に行った古賀中尉が最近まで勤務して居た、日満商事時代に顔馴染みであった長老の息子張さんと偶然の再会で、古賀中尉の人柄を褒めての口添えがあった事で漸く許しを得たのだそうです。
こんな事情もあって、一日も早く奉天市内の状況を把握して部隊の解散と言う方向に持って行こうとしたのでしたが、事態は日増しに悪く成るばかりでした。
奉天市内では、中国政府軍とソ連の後押しで勢力を増長した八路軍との市街戦が激しくなって、市内の偵察も不可能と成ってきたので、目的も目標も無くなり遂に将校と下士官の間で意見の食い違いが生じて、それが原因で険悪の事態を引き起こす所でしたが、造反の下士官がこの村を去って行ったので大事に至らなかったのが何よりの救いでした。
この時双方が武器を取って争ったならば、おそらく私達はその板挟みに成って犬死にと成る所でしたので、この事件が私達に与えた動揺は計り知れない程大きなものでした。

1−9: 略奪事件

奉天の鉄路学院を追われる様に出発して来たので、食料の蓄えも少なく早速補給しなければ成らない状態となった、早速この場所から余り離れて居ない糧秣倉庫に行って見る事と成ったが、何分この混乱の時勢なので偵察の意味も兼ねて三十名余りの者が食料の受領に出かけて行ったが、案の状既に倉庫は壊されて何一つ持ち帰る物もなく諦めて帰らざるをえなかった。
途中食料の調達の為現地の穀物を取り扱っている家に立ち寄って譲って貰う交渉をしたが取引は総て失敗に終わって帰って来たが、彼方此方交渉に立ち寄っている間に、一部の者が農家の収穫した食料を持ち帰って、自慢話にしているのを聞いた時には、後日問題にならねば良いと思って居た。
翌日の午後、近隣の村の有志が、日本兵が略奪事件を起した事件に対して道義屯の村長に抗議に来たのでした良く調べた所先日道義屯を出て行った下士官が、途中の駄賃とばかりに農家を襲い食料を持ち去って行ったと言う苦情からの抗議で、早速この村に滞在して居る日本兵を一日も早く退去させる様に迫って来た彼等と、もう少しの猶予と願う日本方とで長い時間を掛けた交渉が続けられて、やっと、隊長以下数名の将校と、道義屯の主だった人達で被害を受けた村に詫びを入れ、その上なるべく早く道義屯より引き揚げると言う約束を交わして、決着のめどを付けたと言う話でした。
散々揉めた事もあって翌日の朝礼は、長々しく続けられてこの様な事件が二度とおきれば即刻どうにも成らない事態に成るので十分注意する様に強く申し渡された。
しかし村民の中には、今すぐにでもこの村より出て行く様に、村長に対して圧力を掛けて居る者も居て、村長の煮えきれない態度に我慢が出来ず、一部の者が八路の兵らしき人を数名連れて来て、これ見よとばかり盛んに告げ口をして居る所を見せつけられては、もう此処には居られないと思った。

1−10: 追放

気忙しい毎日を迎えて居るので自然、隊の規則も乱れて私の属して居る班内にても田中と言う者の貴重品が盗まれたと言う騒ぎが起きて、教育係の越智上等兵が各人の所持品の検査を始め、雑納袋の中味を広げて点検している時の事でした。
村長の家の前が急に騒がしく成って来たので何事かと見れば、青褐色の軍服を着た兵士数十名と見慣れない農民が、盛んに何か口走って兵士と一緒に村長の家の中に入った行くのが見えた。
残された兵は銃を構えて辺りを警戒して居たが、特に私達のテントを凝視して居る眼は恐ろしい程険しいものでした、私達はじっとテントの中で固唾を飲んでじっと見詰めて居ると、険悪の顔をした隊長以下数名の将校が村長の家の中に急いで入って行った。
その様子を眺めて居た私と、警備兵の視線が偶然にピタリと合った時などは、恐ろしくて身震いが止まらない程でした、やはり来るべき時が来たと観念して居ると、一時間余り
立った頃に決着が付いたのか隊長達が困惑した顔をして出て来た。
彼等の要求は待ったなしの道義屯よりの撤退であったが、交渉の末荷物輸送の出来る迄と言う条件で最小人員を残して、即刻移動を始めると言う条件で了承されたそうです。
残留には古賀中尉の他二十名余りが残る事となり、他の者は午後三時頃より急遽この村を後に出発した、行く当てが在るのか、無いのか判らぬままの行動に、思っただけで心身共に疲れ果てて、足を引きずり乍ら只歩き続けた。
どの位歩いたのか、真夜中に三度目の休憩の合図で、その場に寝ころんで暫く仮眠を取った後あたりを見渡せば、薄暗い外灯に照らし出された所は、煉瓦塀の続く建物でした、その場所を動き出したのは四時間以上も経過した朝方でしたが、なぜか建物の中に入るのに手間どって居り、見れば大勢の日本兵が次から次へと塀の中へ押し込まれる様に入って行くのが見えた。
漸く私達も敷地内に入り、案内された所は間取りの狭い寮の様でした、道義屯を追われ落ち着く先が決まった迄は良かったが、ソ連軍の仮収容所だとは次の日まで知らなかった。

1−11: 仮収容所

昔から四畳半と聞けば粋な話でも出ようと言うものですが、私達の集まりである一班二十余名に割り当てられた部屋の広さだったのです。
この部屋もこの間までは、大学の学生寮として使われて居たらしく、机や専門書と共にがらくた物が放置された儘であった。この寮は小さく仕切られた部屋が沢山あったので、その部屋を班別に一室と言う具合に分けて入居させられたのであるが、如何に狭い場所に押し込められたと雖も、階級がものを言う世界なので、押入とか床の間という様なところは班長や古参兵が占有してしまい、残された場所に十数名の我々新兵が中央に足を向けて一斉に寝ころんで休むと言う具合なので、夜中にトイレにでも行こうものなら、元の場所には戻れず、廊下にでも寝るより他は無いと言う状態でした。
毎日が軍隊生活の延長の如く、我々新兵は相変わらず食事当番や洗濯・風呂と雑用に追われる忙しい日々でした。
時たまソ連軍の使役に狩り出され、方々の日本軍から接収して来た品々の整理やトラックの積み込み作業をさせられた。
この収容所は体制の整わない、ソ連軍が緊急に開設したらしく、まだ警備も手薄なので許可さえ取れば自由に出入りが出来たが、しかし奉天市内では中国政府軍と八路軍の権力闘争が激しく、とても脱出など出来る状況でないと、先に入所して居た人達が口々に言って居た。
入所三日目の朝であった、野菜受領の為近くの農場に清水と言う軍曹に引率されて行った時の事でした、収穫も済んで帰る間際に成って、当の軍曹が
「命の保証は出来ないが、家に帰りたい者は帰れ・・・」と叫んで居た。
皆、呆気にとられて、只顔を見合わせて居るだけで、誰一人として申し出る者も無く、結局全員が欠ける事なく収容所に戻って来たのでした。

1−12: ゆき詰まり

仮収容所に入って六日目の日が道義屯に残留して居る者の残留期限の日なので、村に残して置いた荷物の引き取りと道案内の為に、早朝私達二十数名が大八車を引いて道義屯に向かったが、不慣れの道なので五時間も掛かって漸く村の入り口近くまで辿り着いた時の事である。
村の方より残留して居た者達が、ほうほうの体で逃げて来るのに、ばったりかち合った、驚いて尋ねてみれば、昼食の準備をして居る所へ、大勢の八路軍の兵士が来て、問答無用にて即刻この村を出て行けと、銃口を向けて脅して来たので、残留組は全員浮き足立ってうろうろして居ると、その時を待ってましたとばかり住民までが気勢を挙げたので、もう居たたまれず、何も持たずに我先にと飛び出して来たのだと言って居た。
残留組の責任者だった古賀中尉などは余りの驚きに、言葉もしどろもどろと成り無意識に側にあった飯のシャモジを持って、うろうろするばかりなのを見兼ねた、八路軍の将校に窘められて漸く我に返って、撤退命令を出したのだと言って居た。
この道義屯に来るまでは、終戦と言う計り知れない大きな変化にも沈着な行動を取って私達の心の動揺を押し鎮めて呉れ、我々の憧れの的であつた人でも、この様な突発的な場面ともなれば、知能の限界で致し方ない事だと思った。
考えて見れば目先の付く迄と、種々色々の手を尽くした結果も、遂に八路軍や住民の圧力に屈して、最早奉天の収容所以外に行く宛が無いと言う哀れな結果と成ってしまった。最早俎板の鯉で今更じたばたした所で成るようにしか成らぬと観念して、愚痴一つ言う元気も失せて疲れきった足を引きづりながら、今朝来た道を追われる様に手ぶらで希望のない収容所に戻って来た。 

1−13: われて

私達が道義屯を追われて、この収容所に入れられた八月下旬頃には、宿舎から西側の煉瓦塀までの広い場所は一面野菜畑と成って居たので、自由に採取する事が出来たのですが、入所して一週間位して、宿舎と畑の境界線に杭を打ち込んで有刺鉄線を張ってしまった。事件が起きたのは九月八日の朝の事でした、突然の非常呼集に何事かと眠ぼけ眼で広場に集まれば、各隊が人員確認の為に一斉点呼を始めたが各隊とも異常がなかったが、今朝一人の兵士が有刺鉄線を潜り茄子畑の所でソ連の監視兵に射殺されると言う事件が発生したので、その兵の所属する小隊と氏名を調べる為の集合だつたのですが、入所中の部隊に欠員は無く、おそらく入所する他の部隊と一緒に紛れ込んで入ってしまい、外に出られず柵越えしようとして撃たれたのであろうと、推定されて片付けられてしまつた。
私は始めての経験でしたが、人間をいとも簡単に殺してしまう心理など、とても理解する事が出来ず只囚われの身である事への、もの凄い恐怖を強く感じた。
この射殺事件がきっかけと成って、外出するにもなかなか許可も出なく成って完全に収容所内に閉じこめられてしまった。
日本軍より押収した兵器や物資がトラックで毎日大量に運び込まれて来るのであるが、それらを整頓させる為に毎日私達を交代に出動させて、選別作業や倉庫への搬入や整理など一日中させられる様に成った。
この作業を仕切るソ連兵は言葉が通じないので、身振り手ぶりで我々に指図をするのですが、全く通ぜず私達が彼等の意に添わぬ時など、ちかずくなり足で蹴るやら、銃の木座でこづくと言う荒っぽい扱いを受けて、改めて俘虜の身である事を味合わされました。


 

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